心配、ありがとう。63年も一緒だったかみさんの死は悲しい。悲しいけれども、悲しがってばかりいたら、たぶんかみさんも悲しむので、なるべく明るく暮らそうと自分に声をかけています。  七七日忌の法要を済ませ、正月になって、近所に住む大学の先生が遊びにくる。64歳の彼の専門分野は西洋美術史。画家パラル・クレーの話になると止まらなくなるので、私は彼を「パウル氏」と称んでいる。  パウル氏と正月にいつも話題になるのが、東洋大学が毎年発刊する「現代学生百人一首」。  「ビーリアルみんな追われる2分間今日も昨日も真っ黒リアル」  という男子高校生の歌をパウル氏が話題にした。  「朝日新聞の天声人語がこの歌を取りあげていてね。毎日違う時間に通知が来て、2分以内に写真を撮って共有するとか書いてあった。SNSのBeRealは、Z世代の人気アプリだとかとも書いてあった。  しかし私にはチンプンカンプン。困った世の中になったものだ」  とパウル氏はビールをのみながら言い、  「おれはあなたよりもチンプンカンプン」  そう私が言い、しばらくふたりは無言。  「そういえば、チンプンカンプンという名前の馬がいるなぁ」  と私が口をひらいたが、パウル氏は競馬にまったく興味を示さないので、ひとりごとになってしまった。  「お会計五歳の弟「ペイペイで」この時感じた時代の流れ、という中学生の作品もあるなぁ。  2010年以降生まれのα世代が詠んだもので、世代はZの次へ続くというんだ」  とパウル氏が言ったが、私が話相手になれずに黙ったので、パウル氏の長いひとりごとになってしまった。  私は病気でアルコールアウトになってしまったが、パウル氏は3つ目の缶ビールを手にして、まったく表情に変りがない。  「パウル氏が馬になったら、イクラノンデモシラフという馬名だな。あっ、10文字になっちゃうからダメか」  「ヨシカワさんはノンアルという馬名だね」  「あなたは競馬を知らないから判らないが、おれにはションボリルドルフという立派な馬名がついてるの」  こんな他愛無い会話が楽しい。  「ところで、銀行の支店長だったおばさんが、貸金庫から金塊を盗んだりして20億円とかいう事件があるけど、競馬やFXで借金と言われてる。FXって判る?」  と私が訊いた。  「判らない」  そうパウル氏が言ったので、私は新聞記事から「外国為替証拠金取引(FX)」と書き写したメモ用紙を取りに行って見せた。  「ああ、知らないことばかりで回っている社会で生活してるんだなぁ」  とパウル氏はお手上げポーズをした。  銀行のおばさんが、いったい、どんな馬券の買い方をしていたのかなぁと、私はいろいろと推測してみるのだが、判らない。チャンスがあったら、その銀行のおばさんに会って、それを聞きたいなぁと思う。  パウル氏は今、「自分のことをバカだと思わない人ばかりになる国への不安」をテーマにして、毎日少しずつ原稿を書いているらしい。  「スマホでね、何でも答えが出てくるから、自分のことをバカだと思う時がない。他人のことをきちんと考えない人ばかり。面倒なことはしたくないというのが人生になる。それが不安で私は、ビールをのむしか仕方なくなっている」  とパウル氏は楽しそうに笑っている。